我が町 田町

伊達政宗が仙台城の築城を始めたのは、慶長6年(1601) 1月である。 それと並行して城下町 の建設が始められ、先ず大町と国分町の交差する 「芭蕉の辻」 を基準にして町割りが行われた。

政宗と共に岩出山を含め各地から移住してきた 約5万人の内、 侍が3万人、職人、商人等が2万人 であった。 そのため、 城下町の大部分は侍屋敷で あったが、 南北に通る大街道 (奥州街道)沿いには 町が配置された。

米沢から岩出山を経て仙台へと政宗に従って移住してきた職人、商人が住む町 (大町、 肴町、 南町、 立町、柳町、 荒町)は「御譜代町」 と呼ばれ、西側の城近くに配置された。 城下町の建設は、 慶長15年(1610)には、創設計画の工事は完了したようである。 当初は、 田町が 「仙台指八御 通町」として仙台城下の「南玄関口」となっていた。

城下町には、当然のことながら地形、 防御を考えて侍屋敷、 職人屋敷、町人屋敷、 寺社などが 配置され、 店舗を開くことは24の町に限られた。 「町方24か町」 または 「惣町」と呼ばれ、田町 もその中に含まれている。 前述の「御譜代町」は町方24か町のなかで序列上位にあたる。

森氏宅にある絵

藩政時代には、田町の人々が仙台城本丸の普請に参加し、 政宗の目にもその勤勉振りが留 まったようで、その褒美として紙専売の特権が与えられた。
その過程で、400年以上の歴史を誇る「文珠院大日堂」も配置された。政宗以前は、 古代 「東山道」、 中世 「奥大道」 そして江戸時代からは、 「東街道 (あずま街道)」 と呼ばれる基幹道として推測される道があり、 宮城県南部の名取・ 愛島、 熊野堂から富沢、 宮沢渡しを経て木下、 陸奥国分寺、 国府多賀城まで、 さらに平泉、 出羽国府、 秋田にも延びている道 です。
所が、 この東街道が不思議な 「遠回りルート」があり、 (国道286号の) 根岸の交差点を左に 曲がり、 越路、 向山の坂を上る。 周りは何もない森や林である。 鹿落観音あたりで仙台市内を一 望したのち、 鹿落坂を急いで下り、霊屋下で渡し船に乗り、 広瀬川を渡る。 米ケ袋(鹿の子清水) の冷水で一息入れて落ち着いた所で、 文珠院大日堂がある猿曳町を上がる。 田町の交差点を右 に折れ、 清水小路の小橋を渡り、 連坊小路、 木下を経由して陸奥国分寺に至る。

このルートは歴史的にも検証されております。 源義経が 平泉に逃れる経路ははっきりしておらず、もしかしたら、 人 の目を憚って、このルートを選択したかもしれません。

仙台には、地下鉄南北線が登場するまで、戦前から市電があり、大正15年(1926) に市電が 開通した際には、 仙台駅前から大町一丁目と東五番丁から荒町 (通称. 田町停留所)の2線だけ であった。 市内環状線になったのは昭和3年、 荒町線が長町まで延長されたのは昭和11年であ る。 荒町線が当初から計画上にあったのは、 田町に在住されていた4代目八木久兵衛・貴族院 議員の影響が大きいと言われている。

門の前で

現在の学院大側から見た八木邸

田町は、大日堂を「扇のかなめ」として、北東部に拡がる地形にあります。 町内にあるT字路 は、「伊達騒動」で有名な原田甲斐等の上級武家屋敷と商人屋敷の交差点にあたります。
現在は、東北学院大学の土樋キャンパスと五橋キャンパスに挟まれ、さらに東北大学片平キャ ンパスにも囲まれた状況になり、 荒町小学校と五橋中学校を含めた学園地域になっています。
田町は戦災から免れ、多くの商店が立ち並んでおりました。 高度成長期を境に、仙台市の発展 とともにマンションが建ち並び学生用マンションを含めると14棟があり約450世帯1200余人が 住んでおります。

昭和40年代の田町

令和時代の田町

地下鉄南北線を利用すれば1駅で、歩いても20分程度で仙台駅に着きます。同じく20分程度で繁華街東一番丁に着きます。 買い物には便利な所です。


杜の都の割には緑の少ない所ですが、近くには 「青葉城恋唄」で有名な「広瀬川」と武家屋敷 跡地の東北大学片平キャンパスの緑地及び仙台三名園と言われた 「清奇園」 の一部が、 その不 足を補っています。